香り

 潮の香りが、妙に懐かしかった。昨日は所用あって、港の辺りまで出掛けたので、ついでに、その近くの海岸公園まで足を伸ばしたのである。別に私は海の男でもないし、海の近くに住んでいたということもない。けれども、潮の香りは私に暖かく、心が和んだ。私はベンチに腰を掛けた。すぐ近くで、遊覧船が海上を滑っている。波がコンクリートに衝突して、小さく砕ける。空では鴎が旋回している。何の変哲もない風景だったが、私は退屈することなく、それらを見続けていた。こういう時は、誰からも話しかけられたくないものである。幸い、私に話しかける人は、この時もそして普段もいなかった。
 どのぐらい海を眺めていたのだろう。気がつくと、丁度正面の海を隔てる鉄柵の前に、一人の青年が立っていた。その青年は、手を胸の辺りにまで持っていって、海に向かってひたすら拝んでいるのである。私は、その青年が海に何を祈っているのか、問いたい衝動に駆られたが、その青年も私と同じで、誰にも話しかけられたくないのだろう、そして、もし、私が誰かから、長い時間海を眺めている理由を問われても、答えることができないのだ、そう思って静かにベンチから立ち上がり、その公園を後にした。
 帰りの電車は、潰される程ではなかったが、それでも自由に手を伸ばせない程には混んでいた。私はドア際に立ち位置を決めた。電車が動き出すと、すぐ横に立っていた女性が徐に鞄から缶コーヒーを取り出して、パチンとそのフタを開けて、飲みだしたのである。コーヒーの甘い香りが、私の鼻腔を満たしたが、私はその香りに何も感じることはなかった。何故、混雑している車内で缶コーヒーなのだろうと問いたいところであったが、やはり私は黙って、後ろへ流れていく街の風景を窓ガラス越しに眺めていた。