言葉の重み

 私の言葉は今まで、どれだけ軽薄なものであったのだろうか。語彙の多さや修飾の上手さでは、もはや相手に響く言葉とは成らない。抑圧しても抑圧しきれぬ、身体から発せられる言葉こそ相手を打ちのめすばかりの力がある。人間が言葉を発する時、そこに表現されるものはその人間の身体そのものなのだ。
 宮原昭夫氏と宮原氏の担当でもあった河出書房新社の編集者、福島氏との公開対談があり、私はその録音と編集を担当していたので、傍らでそれを聴いていたのだが、作家と編集者、そこから発せられる言葉が私とは何かが違うのだ。そもそも、私は宮原昭夫研究で論文を書いてきたが、その論文がいかに小手先の、言葉に重みがないものであったかを認識させられたのである。論文であるからどうしても論じなければならないのだが、そもそも小説とは良いか悪いかのどちらかしかなく、それ以上も以下もないのであり、それだけを伝えることができれば良いのである。しかしながら、良いものを良いと言うことは、実は非常に困難な作業なのであり、逆に作家は自分について話すことほど困難なことはない。ところが、宮原氏の言葉も福島氏の言葉も、熱い塊となって飛び交い、私に届くのである。公開録音ということで、宮原氏も福島氏も抑制しての発言であったにもかかわらずである。それは、小手先の言葉ではなく、言葉の技術でもなく、思いそのものなのであり、身体そのものだからなのであろう。したがって、私がある作品を良いと言うのと、福島氏が良いと言うのとでは、同じ言葉でも雲泥の差がある。私が宮原作品について解説するのと、宮原氏本人が解説するのでは、これまた雲泥の差がある。私はそれに気づき、愕然としたのである。
 今回は私にとって貴重な体験と気づきとなった。これから先、十年後、二十年後、今回のことがさらに貴重なものと思えてくるに違いないのである。