戦後八十年 個人的談話

私はいつの頃からか毎年、靖國神社のみたままつりに提灯を献灯している。それは、私の大叔父が祀られているからである。もちろん、私は大叔父と会ったことはない。その大叔父の名は丸山眞一。階級は一曹。福島県会津の生まれである。母方の祖母の兄である。しかし、祖母はあまり当時の事を語らなかった為、私は大叔父のことをほとんど知らない。師範学校へ通い、国語の教師であったという。私も国文学を研究していたので、親近感が私の中にはある。
大叔父の義弟、すなわち私の祖父は帝国海軍の情報将校で終戦時は大尉であった。祖父もあまり当時を語らなかったが、立場的に戦況を把握していたのであろう。何とか命を助けようと、当時まだ練習艦であった戦艦山城に大叔父を乗艦させたと伝え聞いている。
ところが、戦況悪化で戦艦山城もとうとう捷一号作戦に投入されたのである。どういう気持で大叔父が出撃したのか、私には正確にはわからない。おそらく文学が好きで本が好きだったはずの大叔父は、私が抱くであろうものと同じであったと思う。そして、昭和十九年10月24日、スリガオ海峡夜戦において、アメリカ側資料によれば時刻は4時19分、場所は北緯10度22.3分、東経125度21.3分、撃沈されてのであった。山城の生存者は僅かに10名。大叔父は生きて帰ることはできず、戦死したのであった。私はこれしか当時の事を知らない。
海軍大尉であった祖父は、なんとか生きて終戦を迎えた。祖母は横浜大空襲の惨禍の中、生き延びて終戦を迎えた。しかし祖父も祖母ももう、この世にいない。
父方の祖父は電気の技術者であった為、招集はされずに、軍需工場で飛行機を作っていたそうで、横浜大空襲の時は、杉田の山まで逃げてなんとか助かったとのことである。やはり私はこれしか知らない。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなった。
そして、令和の時代になり、周囲には私しか靖國神社へ行く者がいなくなってしまった。私には子供がいない。戦後八十年にあたり、私はこの事実を残しておきたかったのである。私は生きている限り、靖國神社へ献灯し続けるだろう・・・。
大東亜戦争に対して賛否両論あろう。しかし、大東亜戦争によって、我々日本人が戦ったことによって、亜細亜を植民地にして搾取していた欧米列強を駆逐し、そして亜細亜の国々が独立できたのは事実である。その事を忘れないでほしい。
明治の開国以来、志のある方々はずっと戦っていた。戦後の復興から高度経済成長、バブル崩壊、失われた30年も戦っていた。そして令和七年、我が国はそして世界は本当の終戦を迎える。この意味は後に分かることであろう。
全ての英霊に、時代を駆け抜けた全ての方々に、哀悼の誠を捧げる。私にはこれしかできない。
令和七年八月十五日
株式会社しましまブックスグループ
取締役会長 島原亮