本物を知る 前編

 二月の上旬から中旬にかけてはあまり人と会う予定がなく、山に篭った修行僧のように孤独に過ごしていた私であるが、そろそろ確定申告を済まさなければならない時期であるので、これは好都合とばかりに決算や申告書類作成に集中しようと思っていた矢先の今日この頃、突如として連続して人と会わなければならない事になり、急に多忙になってしまった。特にこの前の日曜は、午後と夜で連続して二人と会うスケジュールになってしまい、目眩がする程であった。
 そのような中、タイミング悪く、後輩のNが我が家へ駆け込んできたのである。
「しまさん、大変ですよ、大変ですよ」とNは切迫した表情で言った。
「馬鹿野郎。確定申告の忙しい時期に、アポなしで来る奴がいるか。ただでさえ、俺は多忙なんだ。お前と与太話をしている暇はないよ」
「大変なんです。会社から辞令が下りて、本部へ異動になってしまいました」と泣きそうな表情でNが言った。
「いいことじゃないか。出世コースだぜ。何が不服なのかわからないね俺は」
「現場にいないとタダでコーヒーが飲めなくなるじゃないですか。だから辞表を出そうかと思うんです」
 このNはかなりのコーヒー好きで、それはカフェイン中毒にまで達しており、タダでコーヒーを飲むために、あるコーヒーショップに就職した輩なのである。
「お前もケチな野郎だな。どうせお前のとこのコーヒーは一杯二百円以下のまずいコーヒーじゃないか。あんなもの毎日飲んでいても胃がやられるだけだぜ。それにお前の店はうるさくてまともに話もできないじゃないか」
「それでも僕にとっては人生最大の喜びなんです。それが無くなると思うと、もうやっていられません」
「お前は、本物のコーヒーの味と店を知らないからそういうことを言うんだ。本物を知れば、今いるお前の店など別の意味で辞めたくなるぜ。俺は貧乏だけどな、そういうところには、金を出すんだ。本と喫茶店だけにはな。お前は一杯千円するコーヒーなんて飲んだことないだろう」
「ありませんけど、しまさんがそんな高級な店で高級なコーヒーを飲んでいるとも思えません」
「だからお前は駄目なんだよ。そういう店を使う時はな、相手を選ぶ。お前となんか行っても仕方のない店だ」
「そんなこと言わないでくださいよ。是非、その店へ連れて行ってくださいよ。そうすれば、僕も納得します」
「馬鹿野郎。お前が納得しようがしまいが、会社を辞めようが俺にはどうでもいいことだ」
「本当はしまさん、行ったことないんでしょう。ケチなあんたがそんな店に行くわけがない」
 生意気にもNがそう言ったので、私は引っ込みがつかなくなり、わざわざこの忙しい時期に、結局、Nをその店まで連れて行く羽目になってしまったのであった。

明日以降、後編に続く