孤独な仕事で、しゃべり方を忘れて

 オンライン古書店の生活とは、本当に孤独な生活。お客さんとおしゃべりできるわけでもないし、仕事中は黙ってパソコンに向かう。梱包も黙って行い、発送も別に郵便局の人としゃべるわけでもない。そのような生活を続けて、ふと思ったのが、自分は人との話し方を忘れてしまったのではないか、という事。―ここで言う話し方とは、相手を楽しませる為の、そして相手を不快にさせない為の話し方のこと― それに、人恋しくなる季節でもあり、この連休を利用して、友人に会うことにした。私は、自分から友人を誘うことは滅多に無く、本当に珍しいことなのだ。
 そして今回は、女性を交えてのお食事。まだ話し方を忘れる以前は、女性のいる席では、アンチフェミニズムのこの私も、サービス精神旺盛に色々と話をして、相手を楽しませたものだが、どうも、何を話していいかわからない。相手の話を聞いても、直ちに切り返すことができない。昔はポンポンと切り返せたものだが・・・・。やはり、人と話す機会が激減すると、会話が下手になるものか・・・・。などと考えていたら、次第にお酒が回ってきたのか、いつの間にか、真面目くさって歴史や文化などの学術を話している始末。いけない。いつもの悪い癖で、また演説ぶった話になっている。女性の前でこのような真面目な学術を話すと、大抵嫌われるのだ。
「ごめん。こんなつまらん話をして。もっとバカ話をするつもりだったのに」と私が言うと、相手の女性は、
「いいえ、私はこういう話が楽しいから」と言ってくれた。
 そうか、知的レベルの高い女性であれば、真面目くさった話も通じるのだ。私はちょっと嬉しくなった。女性にもこのような知的な人がいるとは。女性で知的な人は、桜井よし子ぐらいしか私は知らなかった。しかし、ここにもいた。
 今までに、私が接してきた女性というのは、知的レベルが低かったのだろう。と言うと語弊があるので、興味の方向が違ったのだろう。これは女性に限らず、男性もである。だから、相手の反応を見て私は気を使って話をしていたわけだ。
 会話とは、興味の方向と、話の題材、そして、その中身のレベルさえ相手と合えば、気を使って話すこともなく、無理におもしろくすることもなく、自然でいいわけだ。会話とはまさに相手次第なのだ、そう私は思った。