富士山の思い出 後編

 車を走らせ無事、我々は須走口にたどり着くことができたのである。車から降りると、九月の下旬であるのにもかかわらず、気温が低く、またもや私達の間に不安がひろがり、体温と共にやる気も失われて行く。須走口の駐車場には、我々の他に若者の集団が一組いたが、そのチームの装備を見ると、短パンを履き、手には大きな懐中電灯を持っている人間がおり、どう見てもこれから登山するとは思えない格好であった。一応我々は、防寒具は持参しているし、両手を空けられるよう、頭に付けるタイプのライトを用意していた。そのチームは我々よりさらに軽い気持ちで登山に来たのであろう。結局そのチームは途中までは我々の後ろを歩き、声がしていたものの、途中から声が聞こえなくなってしまったので、引き返してしまったのだろうと思う。
 我々は防寒具を着て、いよいよ登山口へ一歩入り込んだ。しかし、一難去ってまた一難。閉山している為、立ち入り禁止の柵が立ち塞がっていたのである。登山口に来るまで幾多の困難を潜り抜けてきた我々は、もはや、このぐらいのことでは動じないのである。と思っていたが、M君が不安げな表情を隠さないで、「本当に登っていいものか」とその場で悩み出したのである。私は「馬鹿野郎。おまえはそれでも日本男児か。撃ちてし止まん」とM君を一喝し、ヘタレと呼ばれたくない一心で、柵を乗り越え、その姿を見たM君も私の後に続いたのである。これは後から聞いた話であるが、その時M君は、どうせこの世に未練もないことであるし、死んでもいいと、悲壮な覚悟で登山を開始したそうである。
 我々は、快調なペースで登って行く。夏のシーズンは人でごった返し、登山道に行列ができてしまうらしいのだが、閉山している為、誰もいない富士は歩いていて気持ちがよかった。
 途中でM君が使っていたライトの電池が切れてしまった。電池代をケチって、普通の電池を買っていた為らしい。私はしっかりとアルカリ電池を買っており、しかも換えの電池も買っていたので、ライトを切らすことはなかった。幸いその日は雲ひとつない満月の夜であったので、月明かりを頼りに彼は歩くことができたのである。
 誰もいないかと思っていたのだが、道の途中で、外国人二人組と出会う。彼らは「ビューティフルウィンドウ」と連呼していた。その他にも、何組かの登山者と出会い、この季節にも登山者がいるのだと、出会う度になんだか安心したのである。
 八合目あたりから、足が辛くなり、道に張ってあるロープを掴みながらしか歩けない状態になってしまった。足に力が入らず、踏ん張りがきかないのである。それでも我々は、大した休憩もとらずに登り続けて、朝の五時前には頂上にたどり着くことができたのである。二十二時三十分頃より登り始め、五時前には登頂に成功。約七時間の道のりであった。素人にしては快調なペースであったと思う。
 頂上は風が強く、気温が低く、持参したおにぎりが凍っていた。寒さが辛く、一刻も早く下山したくて、御来光どころではなかった。一応、雲海の下から上がってくる御来光を見たのだが、その時の風景を私はほとんど記憶していない。寒さしか印象にないのである。御来光を見ると人生観が変わると聞いたが何も変わらず、大して感動もしなかったのである。
 寒くてじっとしていることができず、休憩もそこそこに我々はすぐに下山開始。途中でM君が携帯電話を落とすというハプニングがあったが、後日彼の元に無事携帯電話は届いたのである。富士山で落として無事に戻ってくるというのも奇跡的である。
 とにかく我々は無事に下山することができたのであった。その後、周囲の人間に富士登山成功を告げるも、誰も信じる人間はいなく、「嘘でしょ」などと一蹴されてしまい、島原ヘタレ説がなくなることはなかったのである。御来光にも感動せず、なんだかよくわからない登山になってしまった。それに付き合わされたM君はもっとわけのわからない登山であったとことであろう。それでも人生のうちで一度は日本最高峰の山に登りたいと思っていたので、あの時、突然に富士登山を決行してよかったと思っているのである。