第一回講義 「書く前に読もう」 講師 島原亮
皆さん、本日はお暇な中、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。ここに集われた皆さんは、少なくとも、論文が書きたいという強い意思を持った、珍奇でお暇な方かと存じます。というのは冗談でして、最近は卒業論文が選択制になっている大学の文学部が多数見受けられます。卒業論文のかわりになにがしらの授業の単位で卒業できてしまうのです。なにも面倒で難しそうな論文を書くくらいだったら、授業で単位をカバーして、その分の空いた時間を遊ぶなりバイトする時間に充てた方が得であると思う学生が増加し、逆に論文を書く学生が減少してきております。そのようなおかしな動向の中で、皆さんのような論文を書こうという方がこれほどいらっしゃったとは、私は感激のあまり、涙と一緒に鼻水が滴れ落ちてしまいます。 失礼、しかしながら、ここでお伝えしなければならないのは、論文が書けるようになる確かなマニュアルなど存在しないということです。私は今までで、これっ、といった論文の書き方を発見したことなど一度もない。しかも、私は日本現代文学が専門ですから、私の狭い経験の中で、私が考えてきたこと、少しは皆さんの執筆の手助けになるのではないかと思われることのみを今日からお話ししたいと思うわけです。そういう意味では随分と偏った内容になると思われます。まあ、私でも論文が書けたわけですから、そんなに難しいものではないと思って肩の力を抜いてください。 ん、え、あっ、うぅ、只今四人の方が無言で退出なされましたが、、今までの話しのみで論文が書けるようになってしまったのでしょう。きっと私の講義が優秀なせいであります。 さて、記念すべき第一回ということで、「書く前に読め」ということからお話ししたいと思います。私の所へ質問しに来る方で、いちばん多いのが、「何を書いていいのかわからない」という質問です。実はこういう種類の質問が一番やっかいなのでして、これに関して私は答え様がない。何故なら、質問者が質問すらない、カウンセリングに来るという状態だからです。私はカウンセラーではないし、私がわざわざ質問を作ってあげるのもおかしな話しです。そもそも「何を書いていいのかわからない」というのは、自分が論文を書こうとしているテクスト、或いは作家に対して感情がないのです。感情がないということは理解していない、理解していないということは、まだそのテクスト或いは作家をまだしっかりと読んでいないのです。愛情でもいい、憎悪でもいい、なにかしらの感情が湧くまで何十回でも何百回でも読めということです。稀に情が湧かなくても論文を書き上げてしまう人がいます。しかし、想像してください。酔った勢いで行きずりの相手とセックスしたとします。朝、気付いてみると、隣に寝ていた相手の面相が醜かったらショックでしょう。まあ、セックスできたからいいや、と思う人もいるかも知れませんが。セックス自体は気持ちの良いもので、私も大好きなのですが、ちなみに、いちばん前の君、セックス好き? 今夜一緒にどうですか? あっ、駄目。タイプじゃないか。失礼、話しが飛んでしまいましたが、その後はあまり気持ちの良いものではない。論文だって同じです。そのような論文はあまり気持ちの良い論文ではないのです。もし、何百回読んでも、情が湧かなければ、他のテクスト、或いは作家に乗り換えることをおすすめします。きっと私と同様、タイプじゃないのです。 さて、その感情を書いたとしても論文にはなりません。それは感想文、作文です。先程、感情がないことは理解していないことだ、と申し上げました。これを逆に言えば、感情が湧いたということは、理解したということが言えると思います。大まかに言えば、この理解の部分を書くのが論文なのです。そしてその作品、或いは作家に対する理解とは、どのようなものなのか、これが解釈です。この解釈を提示して行くことが、「テーマ研究」になるわけです。 簡単にわかってもらえる為に、例を出しましょう。いちばん後ろのセミロングのブルーのシャツを着た君が、片目を2秒閉じたとする。これを見た三人の反応を見てみる。 A君「うーん、なんて官能的なんだろう!」 B君「目に入ったゴミを除去しようとして閉じたのだ」 私 「今夜セックスしようと誘っているのだ」 A君のは単に感情の表出にすぎず、単なる作文か感想文です。そして、B君と私のは、目を閉じるという行為への解釈です。さらにB君と私は続けます。 B君「目を閉じた時、開け放たれた窓からは風が入ってきていて、ホコリが舞っていた。目にゴミが入った時、目を閉じるのは自然な反応だ」 私 「目を閉じるという行為は『ウィンク』と言い、相手に合図を送る為のものだ。主に男女間で使用されるものだ。しかも、彼女はその時太いサインペンを強く握り締めていた。太い棒状のものは男根の象徴だ。したがってセックスの誘いだ」 などと、B君と私は彼女が目を閉じた行為のテーマを、追求して行くのです。これが大まかな意味での「テーマ研究」になります。当の彼女はといいますと、実は彼女は、はやく講義が終わるという、おまじないをしていただけなのですけれど。ここからしますと、B君と私のテーマ研究は二人ともハズレになってしまうと皆さんは思われたのではないでしょうか。しかし、これはハズレではないのです。 目を閉じるという行為をテクスト、彼女自身或いは彼女の意識を作者、B君と私を読者とした時、実はテクストは我々読者に委ねられており、読者が意味を生成するのです。この意味で、作者とテクストはまったく切り離して考えて良いのであり、B君と私のテーマ研究は、論理的に破綻していなければ、正しいと言うことができます。この考え方が「テクスト論」或いは「テクスト主義」という考え方です。これは、ウンベルト・エーコが、作品は解釈者に対し開かれていると宣言し、ロラン・バルトが作品と作者に死を宣告したことから始まる考え方です。文学理論は論文を書く上で非常に重要なのですが、この講義の方針からは少し外れるので、今後も簡単にしか触れないことに致します。 話しを元に戻しますと、そこにC君が現れて、このように言いました。 C君「目を閉じた行為についてだが、実は彼女は以前にも、他の講義の際に同じ行為をしており、その行為について、まわりの友人に、『これは、はやく講義が終わる為のおまじないよ』と語っていた。したがって、この行為はおまじないなのである」 このC君の考え方は、実証主義的な考え方です。これを文学に置き換えますと、「実証主義的文学研究」と言えることができます。これは、作家の伝記的事実や実生活を丹念に洗い出し、それによって本質を解明しようというもので、文学研究の中でも古典的な方法です。先程お話しした「テクスト主義」とは反対の考え方で、作品は作者のものであり、作品の内には、作者の意図や考え方が隠蔽されており、それを解明するのが文学研究であるという考えに基づいております。 「テクスト主義」も「実証主義」も、どちらが正解でどちらが間違い、ということではありません。皆さんがよりエキサイティングする方を選べばよいのではないでしょうか。 さて、そろそろ終了の時間になりました。最後に、もう一度お尋ねします。今夜私に付き合ってくれる親切な方はいらっしゃいませんか? あっ、男性はご遠慮ください。 また次回ということになりますが、回数を重ねるごとにこの講義への出席者が減らぬことを祈りつつ、今日の講義を終わりたいと思います。
第二回講義 「先行研究を読もう」 講師・島原亮
こんにちは……。チュウ・チュウ・タコ・カイ・ナ……。どうやら前回よりも出席者の数が減っています。圧倒的に女性の数が減りました。どうやら今日は生理の方が多いようです。おいっ、それは水泳の時間だろって、どなたかつっこんでください……。
これは私の講義に原因があるわけではなく、天候のせいであると考えられます。今日は雲が三つしかない晴天です。こんな日はきっと、海や山へ行ったに違いないのです。私も海へ行きたい。山へ行きたい。とびっきりの美女と二人で……。まったく私は働き過ぎる。それなのにいつまでたっても経済が苦しい。働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る……。文学を研究するより、経済学を研究すれば良かった……。失礼、つい愚痴をこぼしてしまいました。しかしながら、このような天候にもかかわらず、遊びに行きたい心を抑えて、私の講義を聴きに来ていただけるとは本当にうれしい限りです。今日出席してくださった皆さんには、せっかくですので、特別な情報を教えましょう。今日は駅前のスーパーで冷凍食品が半額になっています。この機会をお見逃しなく。
さて、前回の講義で私は、書く前に読め、と申し上げました。そして、「テクスト主義」と「実証主義」の違いを、セミロングの女性が片目を二秒閉じたという行為を例にご説明致しました。そこで私は、「この行為はセックスの誘いである」と読んだわけです。これはあくまでも例えだったのですが、私が余りにもセックス、セックスと言い過ぎた為に、前回の講義終了後、一人の女性が私の所へやって来ました。さっそく今晩私とお付き合いしていただけるのかな、と舌なめずりをしていますとその女性は、「おまえの講義は本当に気分が悪い。あんないやらしい読みをするのは、おまえが男だからだ」と文句を吐きました。いわば、私の講義に対して抗議をしたわけです。この女性の抗議は、女性を排除した男性中心の読みへの批評です。確かに、私の読みは男性的なものであり、女性には存在しない読みなのかも知れない。女性が行為主体の片目を閉じる行為=ウィンクとは、非常に女性的な行為であり、だからこそ、そして、私=読み手が男性であるからこそ、片目を閉じる行為=ウィンク=セックスの誘いと読めるのです。逆に女性が読み手であれば違う読みになるのかも知れません。このような批評は「フェミニズム批評」と言われるものです。
また、男性と女性の性的差異は「ジェンダー」と呼ばれます。この「ジェンダー」とは、社会が規定した男性、女性のイメージであり、男らしさ、女らしさと言われるものです。先のウィンクが女性的な行為であるという考え方も、社会によって規定されているのです。「ジェンダー」は、我々がこの社会に生まれてから今日まで、いつのまにか刷り込まれて、頭の中に存在するものなのであり、社会に存在しそこで生活する以上、これを乗り越えるのは非常に難しいのです。だから私の読みは「ジェンダー」に支配されているのであり、抗議に来た女性が言った、気分が悪い、とかそういう次元の問題ではないのです。きっと気分が悪いのは、身体が火照っているせいでしょう。そういうことなら、今夜でも私がお相手致しますが。まあ、「ジェンダー」に興味を持った方は、私よりも社会学の先生に尋ねるのが良いでしょう。
さて、くり返しになりますが、前回、作家やテクストに対する感情を書くのは作文であり、理解の部分を書くのが論文であると申し上げました。そして、「テクスト主義」と「実証主義」についてご説明致しました。このふたつは、あくまでも理解の部分へ向っての、アプローチの仕方が違うだけなのです。他にも、アプローチの仕方は色々あり、「文学理論」などとも呼ばれます。文学理論については、あまり気にしなくても結構です。あくまでも、皆さんが論文を執筆する上での援用材料とでも思ってください。他の文学理論についてもご説明したいのですが、この講義は日程が限られており、私は臨時に雇われた講師に過ぎません。少ない日程の中で、皆さんが素晴らしい論文が書けるよう、次へ進めたいと思います。
本日は、「先行研究を読め」ということをお話ししたいと思います。皆さんが前回の講義通りに作品を繰り返し読んで、やっと頭の中でひとつの理解を得、ここからがスタートだ、と意気込んで原稿用紙に筆を走らせる。そして苦労の末、数百枚に及ぶ大論文が完成する。万歳三唱、めでたし、めでたし。と、なればいいのですが、これが全くの無駄になるケースがあるのです。それは、自分の書いた論文の内容が、以前に誰かの手によって書かれていたものと同様であれば、後から発表したものは評価されないからです。当たり前のことですが、同じ内容の研究論文であれば、皆さんが研究する意味そのものが無くなってしまう。何かの発明の特許と一緒なのです。ただ書いただけでは、マスをかくのと一緒なのです。やっぱり処女じゃないとねえ……。ところで、そこの眼鏡をかけた君は処女ですか? 私と初体験なんていかがですか? あっ、イテッ! 現代の女性はおそろしいものであります。芯の尖った鉛筆を投げられました。
イテテ……。以前に発表されたものを「先行研究」と呼びます。まずは、先行研究を調査して、自分の意見と同じものがないかチェックしてください。面倒かも知れませんが、先達の書いたものを読むのは意外と楽しいものです。読んでいるうちに、先達に刺激されてか、新たな考えが自分の頭に浮かぶこともあります。私なぞは、先達の凄さに圧倒されて、いつもこの段階で意気消沈してしまうことの方が多いのですが。
ここで注意しておきたいのですが、たまに、この先行研究の調査がとても得意な人がいます。とにかく調べた先行研究を片っ端から批判するのです。これも違う、あれもおかしいで論文が終わっていて、自分の理解とその主張が何一つないのです。他のものを批判しただけでは、新しいものを生み出しておらず、論文とは言えません。キャバクラの恋人気分と一緒で、気分だけは論文を書いたつもりになってしまうものです。本当に注意してください。ちなみに、キャバクラも気分だけでいつのまにかお金が消えて行きます。本当に注意してください。
さて、調査の方法ですが、まずは図書館を利用することです。そして、国文学関係の発表された論文を調べるには、「国文学年鑑」(国文学研究資料館編 至文堂)が基本になるでしょう。図書・雑誌紀要論文が調べられます。また、国文学研究資料館のホームページ上からデータベースを検索することができます。
夏目漱石や太宰治などの有名な作家或いはテクストを研究する場合は、先行研究を読み込むだけでも一苦労ですし、それらにない新しい論文を執筆するのも生易しいものではない。しかし、本当に新しくて素晴らし論文を書いた場合の注目度が違います。逆に、マイナーな作家或いはテクストを研究する場合は、先行研究が少ない分、その時点では独自性の高いものが執筆できる可能性が高い。けれども、あまり注目されないケースが多いので、まあ、一長一短というところです。結局、論文の執筆が楽そうだから、とか、注目されたいから、とかで研究対象を選ばないことです。本当に自分が惚れたものを選ぶべきです。これは、講義にも言えることで、皆さんは私に惚れたから出席しているはずなのです。私は来週の日曜の午後でしたら時間が空いています。どなたか、私との個人授業を希望される方はいらっしゃいませんか? 只今、キャンペーン中にて、女性の方なら無料で、男性の方なら七億円で受講できます。
さて、いよいよペンを握って原稿用紙へ……、とは行きません。まだ早い。おそらくだいたいの大学においては、卒業論文は四百字詰原稿用紙で百枚以上書かないといけないのではないでしょうか。書いた経験の少ない方でしたら、必ず私の所へやって来てこう言います。先生、頭の中には書くことがあるのだけれど、百枚も書けません。十枚で終わってしまいます。どうしたらいいのでしょう、と。大抵の方は、書くことが見つかり、先行研究を調べ、資料も収集した、ここまでは辿り着くのです。しかし、いざ原稿用紙に向ってみると、書けない。百枚も書けない。マスはいくらでもかけるのに論文は書けない。せいぜい十枚か二十枚で終わってしまう。そして、この講義も今日は終わってしまう。その対処法については、また次回にしたいと思います。